万分の一葉集

朗読台本集

音楽会における緊張のほぐし方

  音楽会における緊張のほぐし方

 

                            たなか秀郎

「緊張してはいけない」「緊張したくない」そういうときに限って人は緊張してしまう。
 たとえば、上司や同僚が見守る中でのプレゼンテーション、結婚式の祝辞、地上六十メートルの上に張られた綱渡りの綱に第一歩を踏み出すときなど、否応なく人は緊張してしまう。
 次に挙げるのは、ほんの一例に過ぎないので聞き流して頂きたいが、「音楽会でひとりで歌うとき」あるいは「演奏するとき」など、とくに緊張し勝ちである。

 さっき行ったばかりなのにトイレにまた行きたくなる。何度口を潤しても、喉がカラカラに乾く。

「リラックスすれば良い」というのは、緊張している本人には、何のアドバイスにもなっていない。それは「緊張するな」と言っているのと同じだから、である。これではますます緊張してしまうではないか。

 そもそも、人は緊張したくて緊張するのではない。
「緊張してはいけない」「緊張したくない」そう思えば思うほど緊張してしまうものなのだ。
 これは、ほんの一例に過ぎないが「音楽会でソロを歌うとき」など、緊張で思わず声が裏返ってしまったり、楽譜を持つ手が震えたり、声自体が震えたり、掠(かす)れたりしてしまう。
 手が震えたり、声自体が震えたり掠(かす)れたり裏返ったりしているのに本人が気付くと、ますます緊張は高まり、焦りを生む。負の連鎖が始まるのだ。こうなっては、回復のしようが無くなってしまう。

 声というものは厄介なものである。
 ふだん何気ないおしゃべりをしているときには意識もしないが、人前できちんと話さねばならなくなったときや人前で歌を歌ったりするとき、どうしてもその人の体調や精神状態をあからさまに写し出してしまうからだ。
 舞台に立つ。人々の視線がみな自分に注がれている。「うまく歌えるだろうか」そう思えば思うほど身体に力が入ってしまう。喉が締め付けられる。掌にじっとり汗が滲む。動悸が高まる。頭がジンジンする。

 そもそも、人前で歌を歌ったり演奏したりしなければ、こんなに緊張しなくて済むのだ。出演しなければよい。こんな楽な解決法はないではないか。
 それなのにやはり出たい。積み重ねてきた練習の成果を発表したい。なのに緊張してしまう。

「無心になればよい」と言う話もある。何も考えなければよい、ということだ。しかし、ほんとうに無心になってしまったら肝心の歌詞とか楽譜さえ、忘れてしまいそうだ。 だいたい「何も考えない」などということが出来るものだろうか。「何も考えない」ように務めれば、それは「何も考えないようにしよう」と考えることになるから、である。
「何も考えない」ようにするにはどうしたらよいのか、考えれば考えるほど、難しい。なんだか訳が分からなくなりそうだ。

 いっそ、「居直ってしまう」というのはどうだろうか。
 全て、あるがままに受け入れてしまうのだ。人間、完璧なヒトなど居ない。欠点も含めて人間というものではないか。「うまく」出来ることを目指すからダメなのだ。
 声が裏返ってしまったら、もうそのまま歌い続ければ良い。伴奏者が音程を合わせるのに苦労するかも知れないが、構うことはない。主役は歌い手なのだから。
 しかし、そのまま歌い続けると高音に達したとき、音域を外れてしまう可能性が出てくる。そういうときは、小節の切れ目とかブレスを利用して何とか辻褄を合わせればよい。すなわち、そこでオクターヴ下げてしまうとか移調するとか、全然別のメロディーを入れてしまうとか、方法はいくらでもある。ひとことで言えば「誤魔化す」のだ。
 jazzのアドリブだって、こうして生まれたモノなのかも知れない。「失敗」は意外に創造的なものなのである。
 聞き手の中には、もちろん気付く人もいるだろう。気付いても知らぬふりをして聴いている人さえ、居るだろう。 気にしないことだ。無視すれば良い。失敗した事実など、時の中に解消されて忘れ去られるものだ。時は永遠に流れていくのだから。
 しかし、誤魔化すゆとりもなくまるで破綻してしまう場合もなくはない。それはたしかに創造的でもなく、音楽的でもない。こうなってはいけない。救いようがない。

 このように、「いけない」とか、「ダメ」とか「失敗」とか「救いようがない」とか、否定的な言葉ばかり思い浮かべてしまうのも、いけない。あ、また「いけない」と言ってしまった。これではダメだ。あ、いや「ダメ」もダメか。なんだか分からなくなった。話を変えよう。

 さあ、あなたは舞台に立った。大勢の顔が見える。ライトが自分を照らしている。カメラを構えている人もいる。イジワルな目を向ける人さえ居るかも知れない。あなたより上手な歌い手や音楽的に高いレベルの耳を持った聞き手が、聴衆の中には居るかも知れない。そんなことは考えないようにしよう。

 深呼吸をしよう。あれ? 腹式呼吸ってどうやったら良いんだっけ。ダメだ。細かいことを考えるな。ちょっとほほえんでみたまえ。ダメダメ、笑いが引きつる。なにかおしゃべりをして自分の緊張をやわらげよう。ろ、ろれつが回らない。話がとりとめなく空回りする。冗談を言ったつもりがしらじらとする。観客のうんざりした顔が見える。
 さあ、今こそ一発逆転のチャンス。時は、あなたのものだ。
 こんな時は、ガソリンでもぶちまけて、観客を全滅させてしまおう。

 そうだ、     
「こいつらさえ、居なければ」
                            おしまい